瀬戸内坂越の北前船交流記

第19回までは「瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの全国版」を再構成したものです。

瀬戸内坂越の北前船交流記第28回(室津) 

 


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瀬戸内坂越の北前船交流記第28回(室津) 

 坂越の東側に位置する室津は、西側の牛窓と共に、東大寺領兵庫北関から東大寺に税を収めていた時代(1445)から廻船で繁栄し、室津海駅館にはその資料が ありました。税金の資料としては、世界で2番目に古いといわれる貴重な資料です。
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 また、北前船でも活躍していたのが展示の地図でもわかります。
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 その室津も、2019年の北前船寄港地として日本遺産に追加申請するのが、兵庫県世界遺産と日本遺産を新潟市に案内の観光キヤンペーンで知りました。
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  これは、ひようごクラブツーリズム坂本直子専務理事が企画したものです(写真)

 
 2017年4月28日、北前船寄港地が日本遺産に登録されると、井戸兵庫県知事は5月2日の神戸新聞兵庫県北前船構想を発表しています。
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 5月12日北前船寄港地フォーラムin淡路のレセプションでも、井戸知事は兵庫県北前船構想を熱く語っておられました。
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 2019年兵庫県北前船寄港地が、日本遺産追加認定されれば、井戸知事の構想が実現する事になりますf:id:kitamae-bune:20181030073113j:image
 
 室津海駅館に、坂越のまち並みを創る会から3人で行ったのが淡路のフォーラム前日の5月11日でした。
 その後、「たつの大好きfBグループ」に、室津と坂越について投稿していました。
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 室津海駅館の「嶋屋」友の会事務局長の柏山泰訓さんは、室津の歴史やその文化財保護について熱く語り、坂越との違いを感じました。
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 柏山さんの室津への想いは、30年以上にわたり室津での活躍からわかりました。
 
 海駅館には、柏山さんが集めた朝鮮通信使、参勤交代等珍しい品々が展示されていました。f:id:kitamae-bune:20181030102253j:image
 
 去年、室津牛窓等と朝鮮通信使の世界記憶遺産登録にあたっても、柏山さんが釜山にまで行った話もされていました。
 
 展示品の中には、全国的にも珍しい羽鰊(ハニシン)があり、柏山さんのバイタリティに感激しました。
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 案内された後、6月の坂越での北前船の歴史講演を柏山さんにお願いしました。
 
 坂越の大避神社での北前船の歴史講座の前日、小豆島土庄町の南堀英二さんとも室津海駅館に行きました。
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 対応して頂いたのが柏山さんで、室津の話を詳しくされました。
 室津に残る石には、小豆島のものがあるようで南堀さんは、室津でも石の話をしていました。
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 室津の街を歩くと、海岸線沿いに街が発展し「本陣街」に面した旧商家は、裏口が港に接する家屋構造となっていました。
 この時、坂越の町並みとの道路幅の違いを南堀さんが語っていました。
 

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 こうして柏山さんと南堀さんに北前船の講演を大避神社でしていただけました。
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 柏山さんの室津北前船の講演は、わかりやすく評判でした。
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 来年、室津北前船寄港地として追加認定されれば、2017年の坂越での北前船講演がステップになり交流がさかんになりそうです

瀬戸内坂越の北前船交流記第27回(坂越の北前船こども交流拡大プロジェクト)

瀬戸内坂越の北前船交流記第27回(坂越の北前船こども交流拡大プロジェクト)

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 2018年6月大阪での関西北前船寄港地日本遺産認定 共同記者会見で、北前船日本遺産推進協議会の29年30年度の取り組みが紹介されました。
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  この中で「こども交流拡大プロジェクト」は、日本遺産に認定された北前船寄港地38市町から15市町の小学5年生を対象に実施されるというものでした。

  このプロジェクトに、坂越小学校が兵庫県のモデル校に指定され赤穂新聞トップで紹介されています。

 

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  9月6日坂越小学校で実施された「北前船こども交流拡大プロジェクト」は、以下のスケジュールで実施されました。
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    去年、秋田市土崎でもこの企画があり、小学生5年生達が壁新聞をつくり、
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     その後、日本海側から選ばれた小学5年生が、夏休みに小樽に集まり、みんなで北前船の勉強した話が明楽みゆきさんのfm番組『進め北前船』10月12日でありました。
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   今年は、石狩市倉敷市等が既に実施され、その後15地区で出前授業が開かれるスケジュールになっています。
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   坂越では、会場となった坂越公民館で赤穂市の荒木学芸員の坂越の北前船の話から始まります。
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  その後、 日本遺産の構成文化財の現地で、私達が、坂越の北前船について話をしました。
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   「日本遺産構成文化財の坂越の船祭り」のDVDを見ながらみんなで昼食を取りました。
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(野村勝美さん提供2018年10月)

 
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昼食の時間を利用しての授業でしたが、子供達は熱心に坂越の昔や今を聞いていました。
  現地最後は、坂越港で日本遺産構成文化財の生島をバックに記念写真を撮っています。


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 その後会場に戻り「北前船こども新聞赤穂市坂越浦版」を6つのグループで手分けして製作しています。
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  新聞のキャッチフレーズが、「坂越に伝統を運んでくれた北前船」と多数決で決まりました。
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こうして新聞が完成しました。
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  この壁新聞は、15地区でまとめ11月にガイドブックとして発行されるスケジュールになっています。 これについては、フェイスブックで紹介した後ここでも追加で紹介します。
  この企画は、世代間のネットワークを小学5年から広げ、地域間のネットワークに繋げる企画なのがわかりました。
    

 2016年9月、酒田を訪問した時、中学生向けの『酒田の歴史』の副読本の存在を知りました。
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   酒田では中学生の時から北前船など地元の歴史教育に熱心なのを知りました。
 この時から、坂越でも学校の教育の現場で、坂越の成り立ちや歴史を取り上げて欲しいと思っていました。

  それから丁度2年、坂越でも小学校で北前船の授業の実現は、坂越の成り立ちが子供達から繋げる企画に感激しました。 

今後も続けて欲しいと思っています。





瀬戸内海坂越の北前船交流記第26回(江差~奈良)



 瀬戸内海坂越の北前船交流記第26回(江差ー奈良市

 

   明楽みゆきさんのFM番組「進め北前船」は、ゲストの方のコメントにキーワードがよくあります。今回はこの番組がききかけでできました。

 江差町の横山家8代目の敬三氏とお話したのは、2016年11月北前船寄港地フォーラムのエクスカッションの時。しかしその時は、満足に話する時間もなく、そのままになっていました。

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 この時は、北前船シリーズ3回(北前船-和算をめぐって)にある古文書について、詳しくお聞ききしたい事がありました。

 その古文書とは『算法新書』(1830)で、江差に行く前に横山家にある事を梶川雄二さんが教えてくれていました。

  梶川さんは、和算を研究され和算の学会等に合わせ、全国の北前船寄港地を訪ね歩いていた方で、江差にも何回か足を運んでいたようです。
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ヤフオクの画像から)

 敬三氏から、姥神大神宮のお守りを送ってくれた事も言っていました。
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 『算法新書』が横山家にあった謎、それが解明できれば「和算北前船」について、新たな発見があるかも知れないと考えていました。

 下記をクリックして頂ければ、「和算北前船」の内容がわかります。

瀬戸内坂越の北前船交流記第3回(播州赤穂発) - 瀬戸内坂越の北前船

 「進め北前船」のゲストの方の話から、敬三氏に電話するとお兄さんの弘氏が親切に対応してくれました。

しかし、敬三氏はこの3月亡くなられていと知り心残りでした。

そんな気持ちもあって弘氏に、早々会いに行きました。

 全国北前船研究会顧問とお聞きしていましたが、奈良女子大学名誉教授だと名刺を頂いて知りました。

 60年ぶりの奈良市で真っ先に行ったのが春日大社でした。

 1キロ程続く参道の両側には、常夜燈がぎっしりとありました。
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ここには、文化期(1805~17)の小豆島の常夜燈がありました。(写真)

 


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 おそらく小豆島から大坂までは、北前船で運ばれ寄進したものと想像できます。

 北前船で成功した廻船問屋が、春日大社に寄進した例がこの他にもあるかも知れません。


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隣にある東大寺の後、横山氏とJR奈良駅前で5時間近い時を過ごしました。

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 思いがけなく、横山氏から『北前船にかかる論考 考察集』を頂きました。

 これは、全国北前船研究会設立30周年を記念して発行されたもので、小樽商科大学等11の大学でしか閲覧できない貴重な考察集です。

尚、小樽で活躍されている土屋周三氏も寄稿されているのが目次(8)からわかりました。

土屋氏については「すすめ!北前船第6回」(小樽) - すすめ北前船   

 で紹介しています。f:id:kitamae-bune:20180911082148j:plain

 

この『考察集』に掲載の横山氏の寄稿文をこの北前船シリーズへの転載をお願いしました。
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 尚、下記の冒頭の『東遊雑記』(古川古松軒)は、最後の文化遺産の後に参考資料として掲載しています。尚『東遊雑記』の画像は私が添付しました。
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  北前船時代の江差の網元文化

 

      横山弘氏寄稿(奈良女子大学名誉教授)

            全国北前船研究会顧問

  

  江差の繁栄については、古松軒の記録を五十年さかのぼる元文二年、1737年の板倉源次郎の『北海随筆』に、「江差松前第一の繁栄地なり」の記述があり、宝暦十一年、1761年の幕府の巡見使榊原職尹に陪従して松前地方に至った宮川直之の『奥羽並松前日記』(家蔵の写本)に、

 「松前領第一ノ湊也。上方九州北国筋ノ売買船入津故殊ノ外繁昌ノ地也。数ノ子、ニツシン、カラサケ、塩引鮭、昆布、膃肭臍、鷹ノ羽、熊胆等ノ類、諸州積出シ米塩等ト交易スル由也。」とみえる。

 

 十八世紀に入るころには、江差の繁栄は、観るべき段階に達していたわけだが、交易品の中では、「鯡」すなわち、アイヌ語に由来するといわれる「ニシン」の比重が次第に増していったことが背景にある。

 

 松前の商権は、近世初期には、百戦錬磨の近江商人に握られていたが、ニシン景気で沸き立つ松前江差に北陸の庶民の二三男が活路を求めて、あるいは、「マツマエ・ドリーム」を夢見て、「北前船」ルートで波濤を越えて渡ってきた。


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(パネルディスカッションでの横山氏、右から4番目の方、左から4番目の方が土屋氏)

 我が家の初代、「能登国珠洲郡日置村字狼煙の惣向宗兵衛次男文四郎」も、明和六年、1769年、松前江差に至り、

 「詰木石町坂之上岩田家にてワラジをぬぐ。時に二十一歳。」(横山家文書『日加恵』による。)

 かくして、現在で8代、江差に住み着いたのである。江差の古い家には、能登半島特に奥能登にルーツをもつものが相当ある。

 

 来江前の出身地としては、狼煙、寺家、蛸島、正院など、現在の珠洲市海浜集落が挙げられる。(江差には、能登出身者の同郷会「能登会」があって活動している。)

  上述の奥能登以外にも、能登半島全域からの出身者が相当数にのぼることは、当然、推定されるが、渡島半島の各地、「松前の三湊」と称された江差、福山、箱館とその周辺各地の渡道後数世代続く古い家の実態調査が全面的、詳細に行われたならば、いろいろ興味ある事実が明らかになるであろうが、かかる調査・統計は、二十一世紀の現在まで十分になされてはいない。

 種種の条件の制約から、今後は、ますます困難であろう。

 「北前船」時代の終焉からすでに百年以上の年月が経過しており、古老の死去、この間の各地の人口流動など、実態究明を困難にする要素は年々増大、深刻になってしまった。歴史がどんどん時間の闇のなかに消えていくのである。
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 江差が最後のニシン漁に沸いたのは、大正二年、1913年のこととされる。

 『東遊記』の書きとどめた天明年間、1788年の江差の繁栄はしばらく置き、明治中期のかもめ島からの撮影とされる古写真には、江差の海岸に沿って、「羽出し」・土蔵を伴ったニシンの網元、廻船問屋の建物が、なお三、四十軒ほど見える。

 

  ニシンが江差沿岸から姿を消すと、網元、廻船問屋は、ニシンの夢を忘れられないものは、本拠を「下場所(江差以北のニシン場)」に移して住み慣れた江差の家をたたむ。残ったものは、転業をやむなくされる。(我が家は後者で、米問屋に転進した。)

 
f:id:kitamae-bune:20180914114314j:image江差横山家)

北海道指定有形民俗文化財1963年指定。

 初代横山宗右衛門(1748年能登の国、現石川県珠洲市生まれ)より現在まで8代、約250年代北海道江差にて、漁業、廻船問屋、商業を営んできた。

 

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わたしが中学生であった昭和二十年代、1950年代までは、なかば廃屋と化したニシン場以来の建築・土蔵などが江差海岸にそれでも数軒は往時の面影をとどめて残っていた。

 北海道史の重鎮で知られた北海道大学の故・高倉新一郎教授(1902—1990)は江差の実地調査にこられ、ニシン場以来の遺構が危機に瀕しているのを憂えて、ニシン場以来の建築群、いわゆる「網元建築」とニシン場以来の家具、調度、生活用品、古文書などが一括して残されていた我が家をさしあたり保存の要ありとされます。

 

高倉教授の示唆もあって、昭和38年、1963年、12月24日付けをもって、「北海道指定有形民俗文化財」の指定を受けるに至ったのであった。

 それ以来、道内道外の大学・研究機関・教育委員会などから数次にわたって調査・研究の対象にされたが、調査は概して特定の項目・領域に限られ、タイムカプセルともいうべき北海道指定文化財「横山家」の全貌は、今後の調査・研究に待つ部分が少なくない。

 

    以下には、タイムカプセル「横山家」に残る「北前船」交易によってもたらされた文物、代々の当主の人事交流によって今に残る名人の書画など、広い意味の文化遺産の一部を心覚え風に書きとめておく。

 

 文化遺産には、「北前船」によって「内地」の各地から運ばれてきた生活レベルの品々、仮に「第一類文化遺産」と名づけるものと、代々の当主の人事交流によって今に残る名人の書画・文芸作品、仮に「第二類文化遺産」と名づけるもの、の二種がある。

 

 第一類文化遺産

  1. 白砂糖樽 (「大極上白砂糖」杉樽。 一貫詰、二貫詰。大坂心斎橋・大阪北堀江の砂糖問屋の杉樽各一個。)
  2. 鞆の浦の「保命酒」陶器壷
  3. 尾道の酢徳利(壷の表面に「ヲノミチ ャマヲ」の手書き商標。)
  4. 手水鉢(島根・木待産。)
  5. 笏谷石(敷石・土蔵の土台。福井特産の笏谷石は、北前船バラストを兼ねて蝦夷地に運ばれた。江差の至るところに今も見られる。三井紀生氏の『越前笏谷石』三部作参照。)
  6. 番傘(すべて敦賀産。先年敦賀で調査したが、傘の包装紙に記されるメーカーは一軒も現存しなかった。)
  7. 和蝋燭(敦賀産。大きな木箱に墨書された問屋は現存しない。敦賀市教育委員会郷土史家が先年調査に来られ、報告書を刊行された。)第二類文化遺産
  8.  
  1. 詩画軸一幅(蠣崎波藍の山茶花の絵に頼三樹三郎の題詩。『北海道新聞』1989年11月26日号に紹介記事がある。)
  2. 南条文雄自作詩一幅。(南条博士(1849—1927)は、明治四年越前南条郡南条町真宗大谷派憶念寺南条神興の養子となり、本山の命で英国に留学、オックスフォード大学のマックス・ミューラー博士に師事して梵語仏典研究に努め、日本の近代仏教学の鼻祖と呼ばれる大学者。晩年の著書『懐旧録』(平凡社東洋文庫」収)に拠れば、本山の北海道順化に一度ならず渡道、明治31年には、函館、江差、札幌の三別院において布教。詩は「五歳在牛津」で始まる五律『在英寄懐友人』。文雄には、漢詩集『航西詩稿』『碩果詩草』がある。碩果は号。)

 

参考資料『東遊雑記』(古川古松軒)
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   江差の近世の繁栄は、古川古松軒の『東遊記』にみるとおりで、幕府の巡見使の随員という立場は、読者の一定の考慮も必要であろうが、視点にバイアスは看取できず、記述は当時の江差の実態をほぼ正確に伝えていると思われる

 以下は、天明八年、1788年、幕府の巡見使に随行して東北地方から北海道に至った古川古松軒(1726—1807)の紀行文である。 
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 「江指という浦は至ってよき町にて、家数千六百余軒、端はずれに至るまでも貧家と見ゆる家はさらになし。浜辺には土蔵幾軒ともなく建てならべ、諸州よりの廻船、この日見るところ大小五十艘ばかり、町に入り見れば、呉服見世・酒見世または小間物屋、この外諸品店ありて、物の自由なることは上方筋にかわらず。御巡見使拝見に出でし貴賎・老若の男女を見れば、縮緬の単物に白あけ上がりの染め抜きの紋などを付けて、人物・言語もよく、辺鄙の風俗なし。

 

 委しく聞くに、近江・越前より出店数多ありて、上方よりのもの多し。そのうえ長崎の俵物問屋湊ゆえに、上方の風俗に習いてかくのごとしといえり。

 このたび江戸を出でしよりも、家居・人物・言語とも揃いてよき所は、この江指町と松前の城下に及ぶ所さらになし。

 奥羽は寒国にして瓦よわきとて瓦ぶきの家はなかりしに、この町には瓦ぶきの家も土蔵もあり、如何のことにてこの所も寒強き地に瓦をもちゆることとおもいしに、何れも上方焼きの念入れし瓦ゆえに、寒風のつよきにも損せずという。

 (中略)世にいう、松前の地にては昆布を以て屋根を葺きし所もありとて、甚だあしき地のように風聞し、人物・言語も日本の地よりしては大いにおとりしことと人びと思いしことなるに、かかるよき町のあらんとは思いも寄らず、見るものごとにあきれしことなり。これらをもって天地の間至らざる地ははかるべからず。(中略)
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 初めにも記せしごとく、この浦は何によりて富饒の地なるや、家居至ってよし。諸品の自由なること上方に劣らず、返す返すも不審ある所なり。

 御巡見使夜に入りて着し給うに、家ごとに提灯を数かず出せしを見しに、出来合いの提灯にあらず。家に入りて見れば、掛物はいうに及ばず、襖・屏風に至るまでも京・大阪の名ある書画多し。

 

 何国にても金銀のたくさんなる所は、万事の足ることと見えたり。この浦ばかりにも諸国の大船幾艘もあり。何を積みて来り、何に交易して帰ることにや、その大いなることはかるべからず。」(下略)

       (古川古松軒『東遊雑記』巻之五、巻之六)平凡社東洋文庫」版)

 

 

 

 

 




 

 

 

 

瀬戸内海坂越の北前船交流記第25回(北前船寄港地フォーラム)


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 瀬戸内海坂越の北前船交流記第25回(北前船寄港地フォーラム)

  北前船寄港地フォーラムには、多くの方々との出会いから、更にネットワークでつながる新たな広がりがあります。その繋がりから地元で知られていない事がわかる例もありました。

 これは、坂越の先人がかって廻船で活躍していたからだと・・そんな気持ちで毎回、参加するようになっています。

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 最初に参加した2015年11月加賀橋立での、石川好北前船寄港地フォーラム議長と石川県の観光大使道場六三郎氏の対談が心に残っています。
 
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 道場氏は、日本料理の基本の昆布の「うまみ」でこの昆布なくして「出汁」は生まれなかったと断言され、その昆布を北海道から運んだ北前船の話は石川氏がしていました。
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料理は器によって更に際立たせ、器もまた料理が盛られることで真価を発揮する、料理と器の一体感が日本料理の真髄であり、石川ならではの数々の伝統工芸が料理に影響 していたと語っていました。

  以来、東京銀座の道場さんの店に坂越の人達や、家族友人と行くようなり北前船の話は、女将と話をする機会にもなっています。

 翌日のエクスカッションで、北前船を詳しく案内していた方がいました。この時、わからない事があればこの方に相談しょうと思っていました。

 それから1年、北前船の里の資料館のその方(牧野さん)に能登の塩について相談しました。
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 私より能登で揚浜塩田を経営されている横道さんが詳しいと紹介して頂きました。
 

  こうして2016年11月横道嘉弘さんと東京でお会いする事ができました。

この時、頂いた『揚浜塩田』には、赤穂塩に関わる事が2点掲載されていました。
これは、地元でわからなくても寄港地側からわかる例です。

  坂井市での北前船セミナで、各寄港地に残る足跡をデータベースにする話が浮上していました

 これは、北前船寄港地フォーラムの初日、北前船について日頃から研究されている専門家の方々によるパネルデスカッションの中で提案された事でした。

 

 坂井市は、坂越と同じ加賀のフォーラムから連続で参加していました。これを知ったのは、坂井市でのフォーラムでした。

 その前の5月大連での北前船寄港地フォーラムのレセプションで、初めて坂井市と同じテーブルになりました。
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この時、坂井市観光連盟の大和久米登会長が、明楽みゆきさんのFM番組をスタートさせた去年5月「進め北前船」にゲスト出演していた事を知りました。
 

坂井市北前船フオーラムについては、明楽さんのFM番組の前半で私が、

後半の「進め北前船」は大和会長のインタビューでした。

 大和会長は2日目のパネルデスカッションで三国を熱く語つていました。

次回の、「進め北前船第22回」北前船寄港地フォーラム2もブログから紹介します。










瀬戸内海坂越の北前船交流記第24回(牛窓)

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瀬戸内海坂越の北前船交流記第24回(牛窓

 牛窓に初めて行ったのは、2017年6月でした。
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それは、牛窓と坂越の明治を連想させる湊の風景画が、北海道余市の福原漁場に並んで展示されていると知ったからでした。
  この牛窓湊が描かれ場所を、fBで知り合った清須浩光さんと高祖良子さんが一緒に調べて頂けました。
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 清須さんらの案内で、牛窓神社に明和年間の玉垣があり、余市とは無縁だったものの北前船で活躍していたと感じました。
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 調べてみると牛窓は、1445年(兵庫北関入船納帳)から、1721年(『備陽記』)まで、「牛窓千軒」といわれた程、廻船の活躍で繁栄していたのがわかりました。
 
そこで「牛窓の廻船を寄港地から探る会」のFBグループを作り、牛窓の廻船を東京の図書館等で調べました。
 清須さんらには、牛窓の神社の絵馬等を調べて頂きました。また、『諸廻船入津留帳』(土屋三十郎家文書、享保10年~寛政10年間)から、佐渡国真更川村に入港した備前国15艘のうち、牛窓船が7艘あったのが清須さんの調べでわかりました。
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  立川の公文書館にあった大正時代の牛窓郷土史には、浜田港沖の海難事故の事がかかれていました。

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出雲崎町史海運資料編にあった客船帳3冊には牛窓の足跡が4件ありました。
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また、浜田港の客船帳にある木屋家の名について清須さんから以下のコメントを頂いています。
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  この諸国客船帳にある「木屋」は、明和3年(1766)より87年後の嘉永6年(1853)の材木問屋間で入札方法等を取り決めた『申談義定覚』5人(若葉屋、松屋2人、木屋、梶屋)の中に「木屋五郎左衛門」が見えます。同家は材木問屋の後に廻船業もやったようです。(『牛窓町史』資料編Ⅱ)
 
 このコメントの後、「木屋」さんの後裔の方にお目にかかったそうで、牛窓の若葉屋の近くに住んていると教えて頂けました。

 牛窓を含め日本海で活躍していた瀬戸内海の多くの廻船は、北國の廻船の進出で1800年過ぎから衰退しています。
 『牛窓町史』(資料編2)にも、1809年大型廻船が激減したとありました。
 牛窓の東にある坂越の廻船は、西廻り航路から東廻り航路に転換し、江戸への塩廻船で生き残りました。
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 この春、一般公開された酒田市の光丘文庫の入船記録を北海道からの帰り見せて頂きました。それは、1810年頃からの客船帳だった為、68冊の中で瀬戸内海からは4件だけでした。
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 一方、2017年7月牛窓で、第20回北前船寄港地フォーラムのシンポジウムがありました。
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倉地克直岡山大名誉教授の基調講演で、朝鮮通信使北前船の航行を紹介していました。
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 この時、坂越の人達と清須さんと高祖さんが運営している「なかなか庵」にも行きました。
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この庵の場所で生まれた詩人の高祖保の資料や写真等が展示されていました。
 この庵は、本年12月閉館の予定でDVD等、その保存方法を模索しているようでした。
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今年2月には、小豆島の南堀英二さんと行っています。 
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牛窓には、小豆島にもあるオリーブ園があり、エンジェルロードに似た「ヴィーナスロード」が南堀さんの後方に見えました。
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5月には、むかし下津井廻船問屋の館長だった矢吹勝利さんが企画したイベントで、清須さんたちのグループと偶然会いました。
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 清須さんは、全国清須会や全国高祖会を設立され九州等で集まりがあるといい、
今年は岡山で総会があると高祖さんが言っていました。

瀬戸内坂越の北前船交流記第23回(小豆島土庄町から)

「瀬戸内坂越の北前船交流記第23回」(小豆島土庄町から)
     
2017年6月、兵庫県支援事業の北前船の歴史講座が大避神社でありました。
    この時、土庄町の南掘英二さんに北前船の講演をお願いしました。

 
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    これは、土庄町と坂越が同じ地域(酒田、野辺地)に北前船の足跡があったからでした。

  このシリーズ「坂越の北前船交流記18号野辺地」(下記のURLをクリック下さい)sakosi-kitamaebune.hatenadiary.jp

 

 

投稿で、 野辺地まで友好公園協定の調印式に行った南掘さんと出会えました。

こうして小豆島に行くようになりました。
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坂越での北前船のイベントだけでなく備前牛窓、下津井、笠原諸島等の歴史と食の旅を通して交流しています。
 
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   今回の投稿は、坂越が北前船寄港地で日本遺産認定記念に発行した「越浦30号」に掲載しています。(矢竹)
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  坂越は、歴史の重みを醸し出す街
                                                                         2018年6月29日
                      小豆島土庄町  南堀 英二

 

「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間―北前船寄港地・船主集落」

赤穂市が日本遺産に認定されましたこと、誠におめでとうございます。
  

  昨年の六月十七日に、私は「坂越のまち並みを創る会」(門田守弘会長)のお招きで坂越をはじめて訪れました。

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     大避神社での「小豆島の塩と石と北前船について」の講演当日の早朝、
私は赤穂御崎経由で海岸沿いを車で走り、坂越湾に浮かぶ生島を右に見ながら坂越大道に入った瞬間、思わず「ああ、ここは」という声が出ました。坂越のまち並みが悠久の歴史の重みを醸し出していたからです。 
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  もっと驚いたことがありました。
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坂越湾沿いに建つ奥藤家の邸宅の石組みが、お城の石垣に用いられる「鉢巻積」とよばれるもので、小豆島の属島である豊島で材木商と廻船業で名を成した「片山家(邸宅は町指定、庭園の蘇鉄は県指定文化財)」がこの石組でした。
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  三十数年前、調査のために片山邸を訪れると県の文化財保護委員から、「南堀君、この片山邸の石組みを覚えておきなさいよ、これだけの石組み、民家ではなかなかありませんよ」と言われたことを懐かしく思い出しました。
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  それがこの間、「坂越のまち並みを創る会」の矢竹考司さんと
岡山県の児島に江戸時代に日本一の塩田王と謳われた旧野崎家住宅(国指定重要文化財)を訪れると、なんと野崎家の御成門の石積みが「鉢巻積」でした。

  坂越には、天然記念物の「生島樹林」、重要無形民俗文化財の「坂越の船祭」、
「黒崎墓所」、「大避神社」など貴重な文化財が数多くあり、悠久の歴史の重みを醸し出しています。

 しかし、坂越には奥藤家の石組みのように、まだまだ知られていない文化財が数多くあると思います。赤穂市、そして坂越の皆さん、新しい発見を小豆島より祈念しております。

瀬戸内坂越の北前船交流記第22回(酒田3)

瀬戸内坂越の北前船交流記第22号(酒田第3回)
                                    2018年7月19日
 6月25日 秋田から酒田に行き、2年前お世話になったガイドの横山紘子さんと荘内日報酒田支局をまず訪ねました。

 当時、荘内日報では「北前船航路の旅」のシリーズを連載中でした。その中から酒田を紹介します。

  富樫慎論説委員長に、北前船のシリーズへの投稿をして頂いていたので感謝の気持ちを伝えました。

 

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その時の富樫さんの投稿は、下記のブログにあります

http://sakosi-kitamaebune.hatenadiary.jp/entry/2017/01/04/192051

その後、大信寺の新田住職は、坂越の人のお墓が聖徳太子像の横にあったのが謎だと、2年前になかった言葉が最初にありました。
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坂越の人達は、聖徳太子の1番の側近の秦河勝を古くから慕っていたから、太子像の横にと懇願したのではないかと、梅原猛の『聖徳太子』から河勝を話し勝手な見解をしました。
 

この墓地には、北前船の他国船墓地が あったと酒田市史にありましたが、今も残っていたものは天保の時代以後ものでした。

 元禄期のお墓(1699)で、坂越が唯一残ったのは、太子像の横に建立していたからと想像したのです。
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 この墓の上に何か乗せていたの跡がありましたが、多分この上にあった物を1810年に坂越に持ちかえり、黒崎墓所地蔵尊として残したのではないかと考えています。
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その地蔵尊は、今も坂越の黒崎墓所に残されていますが、これが碑文にかかれています。 
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新田住職から、太子像の譲受書は坂越の墓と同じ元禄年間だと言っていました。
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 太子像は鍵が壊れたので別の場所に保管して公開はしないと言っていました。

 昼食後、1人で光丘文庫に行く予定でしたが、横山さんも一緒に客船帳を調べてくれました。
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 2年前、新たな古文書が大量に発見されていた事を知り、それがこの5月から一般公開されていました。
  

 客船帳は、1810年頃から明治後半迄のもので九州から 入船記録が多くあり薩摩の印もありました。
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  67点の客船帳がありましたが、この時代から瀬戸内海の廻船は、日本海の廻船の活躍で多くが北前船から撤退していました。

その為、瀬戸内の多くが寄港地として港が残たのでした。 

 

 瀬戸内では備前が4件あっただけで、これを岡山の方に調べて頂いきましたが牛窓ではないのがわかりました。

 それでも坂越の廻船は、日本海から江戸へ転換して、塩の廻船をし廻船業は生き残りました。

 横山さんが、これなら、あいおい美術館にい行けばいいと、酒田美術館の理事でもある工藤幸治さんを紹介していただきました。

 光丘文庫の客船帳は、工藤さんが去年寄贈したものだった事がわかり、ここで2時間近くお話しました。

 


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あいおい美術館に江戸期の人形等貴重なものが沢山展示されていました。
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酒田は今、 西郷どんと河村瑞賢生誕400年のツアー客でガイドは忙しいといっていました。(矢竹考司)