瀬戸内坂越の北前船交流記

これは「瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの全国版」を再構成したものです。

瀬戸内坂越の北前船交流記第22号(酒田)

瀬戸内坂越の北前船交流記第22号(酒田第三回)
                             2018年7月19日
 6月25日 秋田から朝一で酒田に行き、2年前にガイドをして頂いた横山紘子さんと荘内日報酒田支局を最初に訪ねました。

 当時、荘内日報では「北前船航路の旅」のシリーズを連載中でした。それを全部保存して見せてくれたので、その中から酒田を紹介します。

  富樫慎論説委員長に、北前船で日本遺産の仲間入りのききかけにもなった、このシリーズへの投稿の感謝の気持ちを伝えました。

 

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富樫さんの投稿は、下記のブログにあります

http://sakosi-kitamaebune.hatenadiary.jp/entry/2017/01/04/192051

その後、大信寺の新田住職は、坂越の人のお墓が聖徳太子像の横にあったのが謎だと、2年前になかった言葉が最初にありました。
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 坂越の人達は、聖徳太子の1番の側近の秦河勝を古くから慕っていたから、太子像の横にと懇願したのではないかと、梅原猛の『聖徳太子』から河勝を話し勝手な見解をしました。
 

この墓地には、北前船の他国船墓地が あったと酒田市史にありましたが、今も残っていたものは天保の時代以後ものでした。

 元禄期のお墓(1699)で、坂越が唯一残ったのは、太子像の横に建立していたからと想像したのです。
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 新田住職は、太子にまつわる掛け軸等を特別に見せて頂けましたが、太子像の譲受書は坂越の墓と同じ元禄年間でした。
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 太子の像は鍵が壊れたので別の場所に保管し、文化財にも申請しないと言って見せてもらえませんでした。もう一度行ってお願いすれば、見せて頂けるかもしれないと感じました。

 昼食後、1人で光丘文庫に行く予定でしたが、横山さんも一緒に客船帳を調べてくれました。
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 2年前、新たな古文書が大量に発見されていた事を知り、それがこの5月から一般公開されていました。
  

 客船帳は、1810年頃から明治後半迄のもので九州から 入船記録が多くあり薩摩の印もありました。
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  67点の客船帳がありましたが、この時代から瀬戸内海の廻船は、日本海の廻船の活躍で多くが北前船から撤退し寄港地として港が残っていました。 瀬戸内では備前が4件あっただけで、これを岡山の方に調べて頂いきましたが牛窓ではないのがわかりました。

 坂越は、日本海から江戸への塩の廻船の転換して廻船業は生き残りました。

これなら、あいおい美術館にい行けばいいと、酒田美術館の理事でもある工藤幸治さんを紹介していただきました。

 光丘文庫の客船帳は、工藤さんが去年寄贈したものだった事がわかり、ここで2時間近くお話しました。

 

 

あいおい美術館に江戸期の人形等貴重なものが沢山展示されていました。
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 酒田は今、 西郷どんと河村瑞賢生誕400年のツアー客でガイドは忙しいといっていました。








瀬戸内坂越の北前船交流記第21号(北海道)

瀬戸内坂越の北前船交流記第21号(北海道)

6月21日札幌の北海道神宮にお詣りが、北前船巡り3年目の始まりでした。

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この後、開拓史建築で歴史ある豊平館で、明楽さんの北前船講演、チェンバロ演奏を聴きました。今年2月、兵庫県政150周年事業で赤穂市坂越でも披露して頂いていました。
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 22日も、札幌から500キロ東の高田屋嘉兵衛創建の根室金比羅神社のお詣りから始まります。

 

 
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境内には高田屋嘉兵衛銅像、その解説そして嘉兵衛が創建した時に始まった祭りの神輿があり、前日の北海道神宮祭と共に、北海道の3大祭りになっています。
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北海道神宮祭は毎年6月にあり、前週の15日に奉納演奏していたのが明楽さんのfBにありました。
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  御朱印には「祈返還 北方領土」のスタンプが押され、前田康宮司の高田嘉兵衛、北方領土のお話に感銘しました。

 
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 明楽さんのFM番組、北前船寄港地フォーラムの話をしたので明楽さんの番組への出演があるかもしれません。  

 23日は、日本で一番早い根室の日の出を見て、800キロ西の松前行く移動の日になりました。
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  ただ前日、明楽さんのFM放送で聴いた「北の錦」のエピソードを北斗市観光センター別館の酒舗稲森屋の稲村社長にお話しを聞きながら呑みました。
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   この旅では「北の誉」を明楽さんの打ち上げの時、「北の勝」は、名城100巡りで再会した根室山形市観光協会の大貫さんとの呑ました。

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    酒田市山形市の文化や言葉の違い、 山形市教育委員会に協力した企画を語っていたので、大貫さんが名城100巡りが見事完結したら、記念に明楽さんの番組でも語っては?などと話したりしました。

24日も松前城の中にある松前神社のお詣りからでした。


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松前城には北前船の日本遺産の構成文化財2点が展示され、お城と北前船の足跡を一緒に見たのは松前が初めてでした。
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  その後、ブログ「すすめ北前船17号」木古内最勝寺にお参りしました。

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    帰りは、秋田、酒田で下車して、2年ぶりに再会したガイドの方に北前船の足跡を再び案内して頂きました。秋田の佐藤節子さんの話は、明日6日のfm番組「進め北前船」のコメントで、酒田はこのシリーズ22回で紹介します。

 赤穂市のHPから、瀬戸内坂越の北前船の日本遺産の登録文化財を紹介します。

http://www.ako-hyg.ed.jp/bunkazai/japanheritage/sakoshi/index.html












































瀬戸内坂越の北前船交流記第20号(日本遺産)

瀬戸内坂越の北前船交流記第20号(日本遺産)

 「坂越のまち並みを創る会」(会長門田守弘)の活動がききかけで、赤穂市が日本遺産の町に登録され、かって栄えた坂越の船主集落が、赤穂市の宝物として文化庁の認定を受けました。
 その翌日、この認定書を中国大連の北前船寄港地フォーラムで、赤穂市にかわり門田さんが受け取りました。

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  およそ300年も昔の坂越の廻船の活躍の足跡を今に伝えているもの!
それは、坂越の船祭り、坂越のまち並み、坂越浦会所、大避神社再建、そして、風よけ港の役割をはたしていた、天然記念物の生島!

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  7つの構成文化財の中で5つは、坂越の人達が慣れ親しんだもので、これらを日本の宝物として文化庁が認め、北前船のキーワードで実現しました。

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  この有形無形の遺産を、坂越の子供達に誇りが持てる道筋が、6月第2週の赤穂新聞に掲載がされています。
 これは、文化庁北前船拡大機構の支援を受け、赤穂市兵庫県の「こども交流拡大プロジェクトの推進」のモデル地区になり、日本遺産の構成文化財が集中する坂越の小学校で北前船の授業をする事が決まったものでした。
 
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  赤穂市北前船の歴史遺産は、坂越地区、酒田市の他、鶴岡市浄土真宗のお寺にもあります。鶴岡市の浄禅寺に残る鐘は(写真)、北前船寄港地フォーラムの役員の茂木仁さんの調査でわかりました。
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 赤穂市が、日本遺産に認定される3ヶ月前の2月25日、坂越小学校で開催した兵庫県政150周年記念事業「坂越のまちづくりの将来を考える集い」がありました。

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冒頭、札幌の明楽みゆきさんが、北前船寄港地が日本遺産になった寄港地の喜びを熱く語っていました。

 これからの、まち創りや観光に北前船が不可欠な坂越のイベントで、北前船を誰も語らない中、明楽さんの北前船の話は後々にまで語られると思いました。

それは、その後赤穂市北前船で日本遺産認定され明楽さんの話が現実のものとなったからです。
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 その明楽さんの北前船講演が札幌である6月21日は、JRのキャンペーンが始まる日で毎年利用して北日本の旅をしていました。
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今年も、これに合わせ、5日間3300キロの鉄道の旅は、北海道を東西の北前船高田屋嘉兵衛を巡る旅になりました。

 帰りは、秋田そして酒田で下車し、鶴岡市を通過したのは25日で、この時の鶴岡市の鐘の存在をまだ知りませんでした。

日本海側の浄土真宗のお寺には、赤穂市北前船の歴史遺産がまだあるかもしれません。 

この5日間の旅については、いずれ紹介します。

尚、このシリーズは、「瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの全国版」を再構成した「瀬戸内坂越の北前船交流記第1号は以下のようなものです。

http://sakosi-kitamaebune.hatenadiary.jp/…/2017/01/02/091211

もっと見る
 

瀬戸内坂越の北前船交流記」第19号(岩国)

 日本100名城巡りで行った山口県岩国観光協会のガイドは、北前船の話は聞いた事がないからと、佐々木小次郎の歌や踊りを披露してくれました。
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  岩国の観光の中心は、錦帯橋岩国城、そして佐々木小次郎で、北前船に迄及ばない瀬戸内海の現実がここにもありました。
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  岩国市由宇は、江戸期は廻船で栄え、岩国藩の水軍が由宇にも置かれ集積や積出港として、藩の出先機関まであった港町だったようです。
  この岩国由宇で、坂越ゆかりの方が小樽まで蒸気船で活躍しています。小樽が、明治に入り北海道の最重要港になっていったのを知ったのは、明楽みゆきさんのFM放送からで、先祖への想いは、『嶋谷海運史』にもありました。
 
 
     瀬戸内坂越の北前船交流記」第19号(岩国)
       
                  2016年12月24日          
 
  今回は、アース製薬の創業者にゆかりのある方が出版された『嶋谷海運業史』から蒸気船の話です。

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岩国の由宇に行ったのは2016年7月でした。
 それから5ヶ月、坂越まち並み館の門田さん宛に1冊の本が送られてきました。それは、赤穂市内のほぼ全域の公民館で展示していた、この北前船シリーズ(写真)を見られた伴信彦氏が旧友で神戸市在住の嶋谷徹氏に伝えたからでした。
 
このシリーズを知った嶋谷氏が、自らが出版した『嶋谷海運業史』を寄贈して頂けたものでした。えられていた手紙には、氏の亡きお母さんの父親にあたる方は、坂越の木村製薬(現、アース製薬)の創業者の木村秀蔵氏だったことが書かれていました。
 
 灘高から京大で金融論を専攻し、三井銀行に入行して海運業界の道にすすまなった嶋谷氏の先祖への想いを以下ように述べています。
 
「われわれ子孫が今日こうあるのも、時代の波浪、激流の仲を奮闘努力した先祖のお陰であるとしみじみ実感でき、感謝の念と共に、こうした先人の努力や想いを少しでも理解し次の世代に伝えられれば……」とかかれ、黒崎墓所の碑文に残されのと同じ意味でした。
 これは、戦前に国策で三井船舶と合併させられた時、社員によって編集された『嶋谷汽船略史』をベースにして書かれています。
 
 これに、残された断片的な資料をシグソーパズルをはめ込むようにつなぎ合わせ、御夫妻で各地の嶋谷汽船の足跡を訪ねて出版したと述べられていました。
 
 そこには、1877年(明治10年)から岩国由宇で氏の曽祖父、徳右衛門氏が廻船業を始め、嶋谷家のその後の海運業での活躍とその家族も含めたヒストリーが描かれています。
  二代目の長男徳三郎氏の時代に、1895年イギリス製の浦門丸(528t)を購入する等帆船からの脱却を早くからすすめています。901年頃から大和型帆船や木造汽船を処分し、堅実第一主義の経営に徹底し岩国由宇では嶋谷汽船だけが残っています。
 嶋谷汽船は北前船航路の運航にも進出し三国、伏木、小樽に営業拠点を設けていたことも述べられています。

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1877年頃の坂越の廻船は、北前船から東京への塩廻船へと転換して半世紀が過ぎています。
 1905年に国が塩を専売制にした事から塩廻船は廃業に追い込まれています。
活躍していた北前船も1904年日露戦争バルチック艦隊日本海で多くが撃沈され、これに鉄道の開通や電信電話の発達が追い打ちしすっかり衰退しています。
 
旧嶋谷社長宅は、小樽市文化財として今も残されています。10月、小樽から来られた伊東直人さんの協力で、現在もある嶋谷汽船旧社長宅の写真の掲載ができました。(矢竹考司)

瀬戸内坂越の北前船交流記第7号(酒田)

 瀬戸内坂越の北前船交流記第7号(酒田)

     2016年9月6日(2018年追記)

 酒田では、北前船にとても熱心なガイドの豊岡紘子さんに、自転車で効率的に案内をしていただきました。  

 案内された日和山公園には、北前船航路を確立した河村瑞賢の銅像がありました。また文中にあるまだ公開されていない、酒田の客船帳が2018年4月に公開されるので、見に行こうと思っています。
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  立派な常夜灯の南側に、坂越田淵文治朗、北側の文字は消えていましたが『酒田の歴史』中学生向けの副読本から播州坂越田淵庄三朗と高田屋手中の文字が並んでいることが記されていました。
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 田淵家は赤穂で1673年より塩田、塩問屋、廻船業を営み、文化文政時代(1804→1830)には日本最大の塩田の持ち主でした。しかし、この田淵家ではないのがわかりました。

 次に案内された 酒田市資料館では、偶然会った、庄内酒田古文書館の杉原館長から、つい最近新たな大量の古文書が発見されたので、坂越の廻船や赤穂塩の事で新たな事実がわかるかも知れないと教えていただきました。
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 この後からは一人で、酒田美術館に北前船寄港地フォーラムの議長の石川館長を訪ねました。学芸主幹の熱海氏から話をお聞きした後、北前船日本遺産応援饅頭と共に冊子をお渡ししました。

 

 その後、荘内日報の富樫編集長を訪ね、ご自身が新聞協会に投稿したものを再投稿していただけることになりました。これは、事前にネットでも見れること伝えていたからです。

  最後に訪ねた大信寺の住職は、過去にも住職がかわり、ご自身も長野から来たと言っておられました。 

墓地は広大でしたが、『酒田市史』にあった他国船墓地と確認出来るものはなく、元禄時代の他国船員の墓は大西家のものだけが残っていました。 それはその墓がとても立派なものだったからだと感じました。当時の坂越の人の活躍と苦難を坂越の人達にも伝えねばと思いました。
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『酒田の歴史副読本』に、大信寺の過去帳には遭難等で客死した北前船の船員は坂越浦の人が一番多いと書かれていました。 

 
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 酒田駅についた時、ガイドの豊岡さんが出迎えてくれていました。まず見せていただけたのが、日和山公園にある常夜灯北側のある播州坂越.と消えていた文字で、それをわざわざ書いてきてくれていました。 
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また、『酒田の歴史』(中学生向けの副読本)があることを教えて頂けたのも豊岡さんでした。豊岡さんは酒田に来られるまでは江差の高校の教員で、江差追分の舞踊もされていたといい、北前船に思いを寄せる背景がわかりました。その後も沢山の資料に送っていただき、丁寧な手紙が添えられていたのにはびっくりしました。

ここでは、北前船に熱い思いのあるガイドに出会え多くの事がわかりました。

 酒田は、中学生の歴史副読本まで発行し、かっての酒田の人々の暮らしを今に伝えています。坂越の子供達は、かって坂越の人々が酒田で活躍していた事さえ知りません。その足跡が、酒田にも残されそれが坂越の船祭りに繋がった歴史を伝える時がいつかくると思っています。

瀬戸内坂越の北前船交流記第18号

瀬戸内坂越の北前船交流記第18号野辺地

                 2017年2月13日 (2018年4月追記)

  青森駅から青い森鉄道に乗って野辺地に着いたのは2016年の9月初めでしたが、途中の青々と繁っていた木々に青森の地名の由来を感じました。
 
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ここでは、野辺地歴史探る会の会長の鈴木幹人さんから多くの事が聞けました。それは野辺地が六ケ所村と隣接している事、日本最古の鉄道防雪林、そして北前船の話からは、野辺地は帆船時代北方交易の重要な拠点の1つとして、有力な豪商たちが競って入港していたのがわかりました。

 

  
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  最も知りたかった坂越の奥藤家の足跡はありませんでした。これは、ネット上の「文化分解」のサイトに、奥藤家が年2回、瀬戸内海で塩を積み日本海を北上し、
帰りは野辺地や田名部で材木!酒田で米を積み、大阪へ運んでいたと記述があったからでした。しかし、野辺地の廻船問屋五十嵐家の、野辺地久星客船帳にも入港記録さえありませんでした。瀬戸内では竹原の塩の取引の古文書が沢山ありました。

 本州最北端の下北半島には、北前船とともに上方から入ってきた食文化や祭りがあると言われ、その代表のねぶた祭についても聞きました。
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 この中で、田名辺祭りは、京都八坂神社の祇園祭りの流れをくむとされる説があり、山車の形態、囃子にその痕跡があるといわれています。
  この祭りは、北前船の時代の前、近江商人下北半島で活躍していた時代からあったようで、近江商人の発祥の地の滋賀県高島市には、田名部祭りに類似した山車祭が存在がある事から、これが田名部に伝えられた説があります。いずれにしても経済力がなければ、祭りが続けられなかったのは明らかで、廻船問屋の存在があったのがわかります。
 
 下北半島ねぶた祭りが、日本海側に伝えられた例に、能登半島珠洲市飯田町の「飯田燈籠山祭り」があります。この祭りで使われる山車は16メートルの高さがあり「燈籠山(とろやま)」と呼ばれています。この山車は、五所川原市の山車が19メートルある点が似ています。 
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  珠洲市の塩田村の横道社長の話で、瀬戸内の塩を流入を抑える為に加賀藩は厳しく、北前船の入港を監視していたと氏の投稿にありました。この話から、青森から入る北前船には規制はなかったのだと思いました。


 鈴木氏が責任者になっている、「野辺地歴史を探る会」のFBには、銭屋五兵衛等、加賀藩の話が多くあり野辺地の深い関係から、陸奥地方にあるねぶた祭りと関係していたかもしれません。
 ねぶた祭りの起源には、諸説あるのがわかりましたが、どれが正しいかというより、どれも正しいと考えるのがよさそうです。


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 また野村屋治三郎が、北前船で運んで店前に敷いていた敷石が、大坂城改築の際に切り出され残された土庄町小海の「残念石」の一部とわかり、野辺地町の町立愛宕公園の石段などに使われていたことが判明しています。土庄町の残石公園の石と、兄弟石であるとの縁で友好記念公園協定を結ばれています。

 この調印式に野辺地まで行ったのが南堀さんでした。

 5月初めて南堀さんにあった時、淡路に野辺地の中谷市長も来られる話をすると、北前船寄港地フォーラムに行かれ中谷市長に挨拶をしていました。以来、坂越での北前船の歴史講演、そして、今年2月の兵庫県県政150周年記念行事にもゲストとして、コメントを頂きました。この時、誰も語れなかった「北前船」を明楽みゆきさんが熱く語り、これまで地元で知られていなかった北前船の話に感激した人は多かったようです。      矢竹考司

 

 

 
   

 

瀬戸内坂越の北前船交流記第17号

 

 北海道小樽の北前船の足跡第17号
      2017年1月20日
  投稿して頂いた伊東直人氏は、小樽観光大学校の「おたる案内人マイスター」としてボランテイアとして活躍中で、国交省北海道運輸局から北海道旅客船協会専務理事を平成26年に退任された方です。
 
 氏には赤穂版6号の嶋谷海運史の発行にあたり、小樽に残る、旧嶋谷汽船社長宅の写真の提供をして頂いています。
 
また前回の16号の中で書いた尾道の石工の事が書かれていたので問い合わせした処、以下の返事が頂けました。石段は遠藤又兵衛が寄進したもので、氏は山形出身の海産物商で明治後期に活躍した商人で現在もその邸宅の一部が保存されています。尾道市石工、寄井彌七と取次、小林利兵衛の石碑は、遠藤の寄進した石段の最上段にあります。(矢竹考司)
  

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       投稿者 伊東直人(小樽市在住)

江戸幕府の下、領地で全く米が獲れない松前藩の財政を支えたのは、主に蝦夷地でアイヌが収獲した海産物などとの交易による収益でした。

 江戸中期になると鰊による〆粕は、西日本方面の棉や藍、菜種などの肥料として需要が高まり、近江商人に雇われた北陸地方などの船乗りにより西廻り航路で日本海、瀬戸内海沿岸の諸港に寄港し、大阪まで運ばれました。

一方、松前藩蝦夷地では、生活に必要な米、塩、醤油、味噌などの食料品や衣類、藁製品などは、本州方面からの移入に頼っていて、漁猟中心の蝦夷地で瀬戸内の塩は、魚の処理、保存に欠かせない貴重なものでした。

 明治に入り、蝦夷地は北海道と改められ、明治政府による北海道の本格的な近代化が推し進められます。その拠点となる開拓使の本府が札幌に置かれ、札幌に近い小樽港は海上輸送の玄関口として位置付けられます。

鉄道など陸路が未整備であった当時、北前船が北海道の開拓に必要な物資や開拓移民の生活必需品などの輸送を担い、北前船の存在なくして北海道の開拓はあり得ませんでした。

 小樽は、元治2年(1865)場所請負制度が廃止され「村並み」となり、本州の村と同等に扱われることになったこの年を開基としています。

 物資の集積地となった小樽には、その保管施設である倉庫が立ち並び、廻船問屋や金融機関なども進出し、まさしく北海道経済の中心地として飛躍期を迎えることになります。

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 明治20年代から30年代には、北陸地方北前船主である加賀市橋立の西出孫左衛門、西谷庄八の旧小樽倉庫(北海道における最初の営業倉庫)、増田又右衛門の旧増田倉庫、加賀市大聖寺瀬越の大家七平の旧大家倉庫、廣海二三郎の旧廣海倉庫、福井県南越前町の右近権左衛門の旧右近倉庫などの石造(木骨石造)倉庫が次々と建てられていきます。

日露戦争で日本の領土となった南樺太への中継基地として、また、鉄道の延伸や港湾の整備などにより輸移出入港の拠点となった小樽は絶頂期へと向かっていきますが、この頃から北前船は小樽の港から姿を消していきました。

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 海の守護神を祀る小樽住吉神社には、大家、廣海両家の寄進した鳥居(明治30年建立)や尾道の石工が築いた石段、揖保乃糸播州素麺會社の玉垣など、各地の北前船に関連した痕跡が数多く残されています。

 また、「北前船考」(昭和32年)などを著し、北前船の研究で先駆的な役割を果たした故越崎宗一氏は小樽生まれ(越崎家の郷里は加賀市大聖寺)であるなど、小樽と北前船とは深い縁があります。

 昨年11月、北前船の寄港地をめぐる旅で坂越や下津井、塩飽本島、鞆の浦、竹原などを訪れ、各地で北前船の遺産等について見聞する機会を得ました。坂越では「坂越のまち並みを創る会」の門田守弘会長から北前船の日本遺産認定に向けた取り組みの話を伺い、下津井の「むかし下津井回船問屋」矢吹勝利館長とは、双方の干拓、開拓に北前船の果たした役割に触れ、今後の交流を深めていくこととし、早速、小樽の北前船に関連する写真を館内展示していただきました。

北前船が小樽発展の礎を築いたのは紛れもない事実ですが、小樽と北前船のさらなる関係解明や有形・無形の北前船文化の観光資源としての活用方法など、まだ多くの課題が残されています。