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瀬戸内坂越発の北前船寄港地交流第19号


  東京から北前船がもたらしたもの全国版第19号

赤穂市教育委員会..観光協会提出 平成29年3月8日
                                         投稿者  矢竹考司(東京都在住)
今回は、3月末に兵庫県に提出する最後になるので、これまでに投稿して頂いた方との東京でのエピソードと都内であったイベントから坂越のまち並を創る会の活動を紹介します。

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3号に投稿の梶川氏は神戸市在住で北前船の寄港地を訪ね歩いている方で、和算北前船の論文を残されています。氏とは神田神保町の古本屋で再会した時「忠臣蔵の恋」に登場した村松三太夫の祖父の茂清の著書『算俎(1663年刊)』を紹介され、現代訳版を買う事が出来ました。茂清は世界で一番早く円周率を下7桁まで発見し『算俎』で残しています。義士祭では、12代目として梶川殿役をつとめ、坂越の北前船への取り組みを宣伝して頂きました。

4号は東洋大学での地方創生フォーラムは日本版DMOの説明でした。これは去年2月東京で国交省の手づくり故郷賞で「坂越の嫁入り」を発表の時の審査委員の関幸子氏からの案内で研修を受けたものです。日本版DMOの第1号は「せとうちDMO」で瀬戸内7つの県が連携しています。DMOを実現させる例では、行政中心で運営している観光協会をJR等の民の資金を入れ、会社組織で運営するのが現実の話で、各地域からこの申請が出されています。これに対して北前船寄港地フォーラムは住民ま参加が出来る、身近で現実的な内容です。それは寄港地同士との連携や発展出来る可能性があります。秋田土崎の世界文化遺産になった祭りを酒田市日和山公園で開催したり鉄道のイベ ントで連携が実現した例があり、広がって行く可能性を秘めています。

5号は道場六三郎氏の佐々木マネージャーに投稿して頂けました。4号で書いた国交省のイベントの前日、門田会長ら3人で「北前船寄港地-坂越」の法被を着て道場氏の「懐食みちば」に行きました。銀座では珍しい北前船の法被に女将の道場氏が挨拶にこられ北前船の話になりました。六三郎氏は石川県の観光大使で、前年加賀での北前船のフォーラムで作家の石川氏と北前船と食で対談の後のレセプションで名刺交換をしていました。

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11号に投稿して頂いた横道氏は珠洲市の塩田村で揚げ浜式塩田経営をされ、NHKの朝ドラのロケ地で現場を提供されたとの事でした。氏とは東京の帝国ホテルの三国清三氏がフランス政府からレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を授与された御披露目パーティーでお会いしました。横道氏からは塩にまつわる話を沢山教えて頂きご自身で出版された「能登の揚浜塩田」まで頂きました。このイベントに安倍首相の昭恵夫人が主賓として素晴らしい挨拶をされました。

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14号は北前船と無縁の愛知県西尾市郷土史家の加古さんの話をヒントにできました。加古さんとは浅草で去年の12月に再会しましたが、吉良町の塩や塩田を中心に車でガイドをして頂いたのは27年7月でした。この時の加古さんのガイドの中で北前船が話があり、無縁の太平洋側から見た北前船の話で盛り上がりました。この話から帆船時代の北前船の話題は関係のない地域にも広がっているのを感じました。

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  18号は青森の野辺地からでした。1月26日東京椿山荘での北前船寄港地フォーラムの新年の会で野辺地の中谷町長と初めてお会いする事ができました。古文書使って研究されている野辺地歴史を探る会の鈴木会長の話になりました。中谷町長とのお話で、9月に北前船のフォーラムがある野辺地に再び行って応援したい気持ちになりました。また江差町の照井町長と宮津商工会議所で企画担当の平木志乃さんとの再会には、学ぶ事が多く色々と教えていだけました。この椿山荘での新年の会では、坂越企画の播磨屋の塩味饅頭が参加者に配られ、我々の活動が紹介され、あらたな展開への予感を感じました。

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「坂越の嫁入り」に続く、「坂越の北前船寄港地プロジェクト」で、北前船の発祥地の酒田に坂越が残した1699年と1812年の石像物、そして酒田市史に大信寺の過去帳に1668年の坂越浦の人の記述があるのがわかました。坂越の廻船が144年にわたり北前船で活躍していた史実は「ジュニア版酒田の歴史副読本」と青森の野辺地歴史民族資料館の「久星客船帳」でもわかります。また酒田市史等には、海難事故で犠牲になつた北前船の船員は坂越浦の人が一番古く最も多いとかかれ、坂越は河村瑞賢が北前船航路を確立する以前から酒田で活躍していた事もわかりました。しかし、赤穂塩の取り引き、坂越の船祭りへの影響等、具体的な事はわかりませんでした。その一方で1年で25回になったこのシリーズの発行で、沢山の地域の学芸員、ガイド、北前船ファンの方々との交流は今も続いていています。これは北前船寄港地フォーラムの目的である寄港地間の交流から観光に!という構想に繋がる可能性がへの成果がありました。

終わりに、これ迄のシリーズは監修していただいて、冊子にして吉良町珠洲市、秋田土崎、そして地元の図書館に置いて頂く事になっています。またネットで北前船で簡易検索が出来る国会図書館にも置いて頂く事も検討しています。今後もブログ「北前船寄港地兵庫in坂越」HP「北前船と坂越」で引き続き発信していきます。これまで地元の教育委員会や寄港地の学芸員やガイドの方々のご協力に心よりお礼申し上げます。                  発行者 門田守弘(坂越まち並みを創る会会長)



坂越の北前船寄港地交流第18号

青森野辺地から北前船がもたらしたもの第18号全国版

赤穂市教育委員会観光協会提出(平成29年2月14日提出)

              投稿者 矢竹考司(東京都在住)

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青森駅から青い森鉄道に乗って野辺地に着いたのは去年の9月でしたが、途中の青々と繁っていた木々に青森の地名の由来を感じました。

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ここでは、野辺地歴史探る会の会長の鈴木幹人さんから多くの事が聞けました。それは野辺地が六ケ所村と隣接している事、日本最古の鉄道防雪林、そして北前船の話からは、野辺地は帆船時代北方交易の重要な拠点の1つとして、有力な豪商たちが競って入港していたのがわかりました。
坂越の大西家の足跡が1812年が最後の寄港となっていた事は事前に教え て頂いていまし た。こうした事から新たな資料に期待していたのですが、廻船問屋五十嵐家に残っていた野辺地久星客船帳に大西家の入港記録があるだけで坂越の新たな資料は残されていませんでした。瀬戸内では竹原の塩の取引の古文書が沢山残され展示さていました。
  ネット上の「文化分解」のサイトには、奥籐家は年2回、塩を積み込み瀬戸内海から日本海を北上し陸奥湾内の野辺地や田名部で材木を、酒田で米を積み、大阪へ運んでいたとの記述があります。しかしこれを示す根拠となる文献はここにもありませんでした。
 また、北前船とともに上方から入ってきた食文化や祭りは、長い月日をかけて青森の地に根付き、今では上方では忘れさられているようなモノコトが、本州最北端の青森に残っているという現象 があるのがわかりました。
その1つに、下北地方の「べご餅」があり、このべこ餅は北前船によってもたらされた砂糖と伝統的な和菓子の製法で作られたといわれ、これが北前船で北海道にも伝わっている。当時は白黒だったようでしたが、地元のお母さんたちが互いにスキルアップを重ねることで進化をとげて残り今に至っているようです。このべご餅は青森駅の売店であったものかもしれませんが確認ができません。

 もう一つは青森県には20程のねぶた祭があり、この起源は諸説あるようで、どれも伝承の域を出ないようです。どれが正しいかという論議より、どれも正しいと理解するのがよさそうです。その中には京都祇園の流れをくんだといわれている祭りもあり、これは北前船が運んだのは明ら かです。また北前船が活躍する以前から近江商人の存在があり、近江商人の発祥の地である滋賀県高島市には現在でも田名部祭りに類似した山車祭が存在する事から、田名部に伝えられたものと考えられているようです。

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 また田名部まつりは京都八坂神社の祇園祭りの流れをくむとされる説もあり、山車の形態、囃子にその痕跡があるといわれています。これもどのような経緯で伝えられたかははっきりしていないようですが、北前船が運んだと考えていいと思っています。この祭りはかなりの経済力がなければ、山車本体、山車に使う豪華な調度品、御神体などを買うことはできな い事から、その背景に経済的に余裕があった北前船の廻船業者の存在があり、今日まで維持し守り続けることができたのがわかります。この点は「坂越の船祭り」の構図と同じようです。
このねぶた祭りは青森を除いて全国に40ほどあるといわれ、この中には、能登半島の先端にある珠洲市飯田町の「飯田燈籠山祭り」で使われる山車で、「燈籠山(とろやま)」と呼ばれている祭りがありました。珠洲市の塩田村の横道社長と東京の帝国ホテルでお会いした時の話で、赤穂等の安い瀬戸内の塩を流入を抑える為に加賀藩は厳しく北前船の入港を監視していたと聞いていましたが、このネブタ祭りの話から、青森から入る北前船には規制していなかったのがわかりました。
また鈴木氏が編集責任者にな っている、「野辺地歴史を探る会」のフエイスブックでは、野辺地の歴史を古文書を使い研究されているのがわかりました。このサイトから銭屋五兵衛の話等、加賀藩の話が多くあり野辺地の深い関係から、祭りにも影響していたのだと思いました。また野村屋治三郎が北前船で運んで店前に敷いていた敷石が後に愛宕公園の移設され階段の敷石となっている事から小豆島土庄町産出の残石公園と兄弟石であるとの縁で友好記念公園協定を結ばれていた事もわかりました。
 

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終わりに野辺地は今年9月北前船寄港地フォーラムが開かれます。これにあわせて1月26日に東京の椿山荘で北前船寄港地フォーラムの新年の会に来られていた、野辺地の中谷町長と鈴木氏や野辺地の歴史を探る会の話が出来て野辺地に行っていてよかった と思いました。次回の19号は東京椿山荘から書く予定です。
            発行者門田守弘(坂越のまち並を創る会会長)
 
   

 

坂越の北前船寄港地交流第17号

 

 北海道小樽から北前船がもたらしたもの第17号全国版
             
          赤穂 観光協会提出(平成29年1月20日)
 
今回は北前船寄港地フォーラムの開催の計画がある小樽からのご当地自慢です。
 投稿して頂いた伊東直人氏は、小樽観光大学校の「おたる案内人マイスター」としてボランテイアとして活躍中で、氏は国交省北海道運輸局から北海道旅客船協会専務理事を平成26年に退任された方です。伊東氏には赤穂版6号の嶋谷海運史の発行にあたり、小樽に残る、旧社長宅の写真の提供をして頂いています。また前回の16号の中で書いた尾道の石工の事が書かれていたので問い合わせした処、以下の返事が頂けました。石段は遠藤又兵衛が寄進したもので、氏は山形出身の海産物商で明治後期に活躍した商人で現在もその邸宅の一部が保存されています。尾道市石工、寄井彌七と取次、小林利兵衛の石碑は、遠藤の寄進した石段の最上段にあります。この事は尾道の西井学芸員に報告し、合わせて「北前船プロジエクト兵庫IN坂越」のブログを紹介する予定です(矢竹考司)
  

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       投稿者 伊東直人(小樽市在住)

江戸幕府の下、領地で全く米が獲れない松前藩の財政を支えたのは、主に蝦夷地でアイヌが収獲した海産物などとの交易による収益でした。

 江戸中期になると鰊による〆粕は、西日本方面の棉や藍、菜種などの肥料として需要が高まり、近江商人に雇われた北陸地方などの船乗りにより西廻り航路で日本海、瀬戸内海沿岸の諸港に寄港し、大阪まで運ばれました。

一方、松前藩蝦夷地では、生活に必要な米、塩、醤油、味噌などの食料品や衣類、藁製品などは、本州方面からの移入に頼っていて、漁猟中心の蝦夷地で瀬戸内の塩は、魚の処理、保存に欠かせない貴重なものでした。

 明治に入り、蝦夷地は北海道と改められ、明治政府による北海道の本格的な近代化が推し進められます。その拠点となる開拓使の本府が札幌に置かれ、札幌に近い小樽港は海上輸送の玄関口として位置付けられます。

鉄道など陸路が未整備であった当時、北前船が北海道の開拓に必要な物資や開拓移民の生活必需品などの輸送を担い、北前船の存在なくして北海道の開拓はあり得ませんでした。

 小樽は、元治2年(1865)場所請負制度が廃止され「村並み」となり、本州の村と同等に扱われることになったこの年を開基としています。

 物資の集積地となった小樽には、その保管施設である倉庫が立ち並び、廻船問屋や金融機関なども進出し、まさしく北海道経済の中心地として飛躍期を迎えることになります。

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 明治20年代から30年代には、北陸地方北前船主である加賀市橋立の西出孫左衛門、西谷庄八の旧小樽倉庫(北海道における最初の営業倉庫)、増田又右衛門の旧増田倉庫、加賀市大聖寺瀬越の大家七平の旧大家倉庫、廣海二三郎の旧廣海倉庫、福井県南越前町の右近権左衛門の旧右近倉庫などの石造(木骨石造)倉庫が次々と建てられていきます。

日露戦争で日本の領土となった南樺太への中継基地として、また、鉄道の延伸や港湾の整備などにより輸移出入港の拠点となった小樽は絶頂期へと向かっていきますが、この頃から北前船は小樽の港から姿を消していきました。

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 海の守護神を祀る小樽住吉神社には、大家、廣海両家の寄進した鳥居(明治30年建立)や尾道の石工が築いた石段、揖保乃糸播州素麺會社の玉垣など、各地の北前船に関連した痕跡が数多く残されています。

 また、「北前船考」(昭和32年)などを著し、北前船の研究で先駆的な役割を果たした故越崎宗一氏は小樽生まれ(越崎家の郷里は加賀市大聖寺)であるなど、小樽と北前船とは深い縁があります。

 昨年11月、北前船の寄港地をめぐる旅で坂越や下津井、塩飽本島、鞆の浦、竹原などを訪れ、各地で北前船の遺産等について見聞する機会を得ました。坂越では「坂越のまち並みを創る会」の門田守弘会長から北前船の日本遺産認定に向けた取り組みの話を伺い、下津井の「むかし下津井回船問屋」矢吹勝利館長とは、双方の干拓、開拓に北前船の果たした役割に触れ、今後の交流を深めていくこととし、早速、小樽の北前船に関連する写真を館内展示していただきました。

北前船が小樽発展の礎を築いたのは紛れもない事実ですが、小樽と北前船のさらなる関係解明や有形・無形の北前船文化の観光資源としての活用方法など、まだ多くの課題が残されています。

      発行者  門田守弘(坂越まち並を創る会会長)

 

 

坂越の北前船寄港地交流第16号

 

    北前船プロジエクト兵庫IN坂越

日本海鳥取から北前船がもたらしたもの全国版第16号    

 
     赤穂市観光協会提出    平成29年1月13日              
             投稿者  矢竹 考司(東京都在住)
今回のご当地自慢は、子供から高齢者まで「約500世帯」の氏子だけの奉仕で、大規模な祭りを執り行っている鳥取市の賀露神社ホーエンヤ祭です。

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 賀露神社にお伺いしたのは去年の3月でしたが、境内に続く階段を上がって行くと、高台にある境内からは鳥取港が見え、それは坂越の大避神社にどこか似ていました。宮司の岡村 吉明氏から、賀露神社会館でホーエンヤ祭の写真を見せて頂きながら説明をして頂けました。この祭りは鳥取県指定無形民俗文化財にもなり、みこし・行列を乗せて千代川を下る箱船とその周りを、にわかにふんした青年が乗ったホーエンヤ船が航行するもので、湾内を一周して豊漁を感謝するホーエンヤと呼ばれる神輿の海上行列も行われ、これが祭り最大の魅力となっているとの話でした。この祭りは約1250年前、同神社の祭神になっている吉備真備公が遣唐使としての帰り、嵐に遭い、賀露沖の島に漂着し、住民が船で陸へ奉曳(ほうえい)したとの伝承が起源だとされた事から島の近くを通り、海岸まで奉曳される話でした。
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 それから2か月して「ダイドードリンコ 日本の祭り」の放映があり、エジプト考古学者の、吉村作治早稲田大学名誉教授がプロデュースしたドキュメンタリー番組「地域創生の船行列~賀露神社ホーエンヤ祭り」として取り上げられていました。この中で陸を練り、海を渡たるこの神事に、各世代間がつながり、子供からお年寄りまであらゆる世代の人々が一つとなって構成され賀露地区の500世帯が総出して成し遂げられいるのがわかりました。単に祭りの紹介ではなく、地域の今や、人と人のつながりを映し出していました。これを見て祭りには全国に発信できる力があり、住んでいる人 のつなが りも深めると感じましたが「祭りは日本の心のすぐそばに」いうスローガンのもと、吉村氏の冒頭の言葉には、祭りの当事者だけでなく見ている人にも力が湧いてきそうでした。この賀露神社の祭りは「1250年前に吉備真備が船で島に漂着が起源」「地区の500世帯」「陸と海の2つの見せ場がある祭り」等がこれも坂越の船祭りに似ていました。

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 祭りの話の後は北前船の話になり、竹野の人が書いた「但馬.廻船史話」を見せて頂きました。鳥取市は平成29年秋に北前船寄港地フォーラムが開かれ、その会場の一部になるのが賀露神社になるらしく、宮司の岡村氏が案内をするとの事で、これから忙しくなると思いました。境内には大避神社にも残っている、錆びた錨そして、1800(寛政12)年に地元の廻船業者が寄進した石灯籠があり「尾道の石工の作で、原石は北前船で運ばれてきたらしい」と説明して頂けました。この話から尾道市学芸員の西井さんが、尾道の石は全国の北前船寄港地に残っているので、平成30年のフォーラムまでにそれを調査すると言われていたのを思い浮かべました。地元でわかなくても、寄港地側に残る石造物から発見できる例が、賀露神社で初めて発見し、石造物は古文書と同等の価値があるのが確認出来ました。また北前船を縮小した木造船の模型がある倉庫も見せて頂けましたが、かっては北前船の交易が盛んだったこともわかりました
 
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鳥取の次に行った島根県文化財の松江のホーランエンヤ祭は、もともとあった祭りに北前船の船頭が新潟から囃子等の文化を伝たえたらしく、似た祭りの文化は全国で17ヵ所ありいずれもが新潟より南の北前船寄港地にあり、鳥取市の賀露神社ホーエンヤ祭りも分布図にありました。瀬戸内海では広島と大阪にありましたが坂越の船祭りにその掲載はありませんでした。
 9月に行った秋田の「土崎神明社祭の曳山行事」については観光案内人の佐藤節子さんから紹介された土崎図書館の桜田館長から話が聞けました。熊本や江差から囃子等が北前船の船頭が伝えたらしく、祭りに寄進したのも廻船業者だった事も教えて頂いた後、山車が北前船の形をしている事を知 りました。またこの祭りがユネスコ無形文化遺産として『山・鉾・屋台行」のテーマで一括登録の報道があった12月1日、佐藤さんとは祭りの話で盛り上がりました。
 
 これ迄の寄港地の祭りを調べて、もともとあった祭りに北前船の船頭等を通じてお囃子や掛け声が伝わったり、また寄進等を通じて祭りにかかわっていたケースの方が多いのがわかりました。また青森県のように北前船航路が確立する以前から活躍していた近江商人が伝えたとされる祭りや、北前船が関わっていた祭りがあるかも知れないので、これから野辺地歴史を探る会の鈴木幹人会長に聞いて、次回以降青森野辺地から取り上げます。
 終わりに、坂越の船祭りが始まった18世紀始めの頃の坂越は、廻船業が全盛期だった時期で、多くの神社仏閣が再建された時期とも重っていて、松江、鳥取のように、もともとあった祭りに北前船が影響したのではなく、廻船業者が当初から関与した可能性がありそうで、これは秋田土崎の祭りの始まりと似ているようですが、坂越の船祭りと北前船との関係は何もわかりません。しかし1699年に既に酒田には大西家の墓が今も残っている事や佐渡に残る客船帳には坂越船籍の船が51隻もあった事から、新潟にも寄港していた可能性があり、坂越の廻船業者が新潟の祭りを見て参考にした事も考えられます。
    発行者 門田守弘(坂越のまち並を創る会会長)

  

坂越の北前船寄港地交流第15号

 

 

 

札幌から坂越-江差北前船がもたらしたもの全国版第15号f:id:kitamae-bune:20170104220348p:plain 

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  (赤穂観光協会提出   平成28年12月23日)

  •  坂越の北前船の歴史を調べていて、その多くの事を学びました。 その一つに北前船関連で出会った人とは、それが話の始まりとなる事が多く、北前船は過去のものになっても人と人をつなげる何か魅力がある事を知りました。今回投稿して頂いた松尾さんもその例です。氏が札幌から坂越に来られたのは10月でしたがその時は坂越の廻船等のガイドを楽しくできましたが、松尾さんからはブログ「林住庵おち漫遊記」の話をお聞きしましたが、五木寛之著の「林住期」から触発された話には感動しました。 そんな事があって11月江差で再会した時はとても驚きました。  再び「林住期」の話で盛り上がりましたが、この時やはり、北前船はこれから観光資源になって行くと感じました。 先日久ぶりに松尾さんのブログをみて第240号で「北前船、赤穂から江差まで」が掲載されていたので投稿をお願いしました。(矢竹考司)                     
  • 北前船 江差から坂越まで                           

                                                       投稿者  松尾 誠之 (札幌市在住)

10月に句会があって 訪れた赤穂市で四十七義士像が並ぶ大石神社に参詣してきました。 当地で有名なのは「討ち入り」なので外せません。 神社のあるJR播州赤穂から一駅姫路寄りの市内・坂越(さこし)という港町の面影を残したまち並みの地区に寄りました。 地酒「忠臣蔵」の蔵元・奥藤家は 討ち入りのあった元禄時代から100年程も前から 廻船業も営んでいた大店であり 「奥藤酒造郷土館」には北前船の模型をはじめ往時の歴史資料が展示されています。  隣接する観光案内所「坂越まち並み会館」に入って思いがけず北海道との繋がりを感じる出会いがありました。 当日、館に詰めていた北前船文化の 調査をしているという矢竹さんと話をするうちに11月に北海道で「北前船寄港地フォーラム」があることが判明、がぜん興味が湧いてきました。フォーラムの開催要領をいただき 会合には坂越からも参加する旨聞き 帰宅後参加手続きを行いました。

当地では観光面で仇打ちばかりでない観光資源として「北前船寄港地」をキーワードにまち興しに取り組んでいます。 函館には5年住んだ関係から、北前船が江戸時代以降近世まで日本の物流を支えた大動脈だったことや江差追分等の郷土芸能・文化が北前船で運ばれたことを身近に知っていただけに北前船に寄せる思いは格別です。  11月11日のフォーラムは 会場の江差町文化会館に全国13寄港地がある県から600名を集め 盛会裏に開催。  江差追分始め郷土芸能披露のあと 新幹線開業後の道南函館観光を軸にパネル討論が行われました。  会場入り口には坂越のPRブースも設置されていて1ヶ月ぶりに北海道で矢竹さんと再会するという不思議な縁がありました。 フォーラム終了後のレセプションでは寄港地フォーラム第1回開催地の酒田市市議さんと同席となりフォーラムが始まった経緯を聴くことができました。 東京一極集中でなく特徴のある地域文化を発信していく狙いで北前船を横糸としてつなげた地域連携型フォーラムが出発点でかつての日本海側こそ表日本だと主張してきているとのこと。 北前船が日本遺産に登録されて現代に甦ることを期待してやみません。

                      発行者  門田守弘(坂越まち並みを創る会会長)

 

 

坂越の北前船寄港地交流第14号

瀬戸内播州赤穂から北前船がもたらしたもの14号全国版 

 

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 現在の「かねやす」                                      大高源吾が書いた看板

                          堀部安兵衛が書いた看板        

 

                     赤穂観光協会提出(平成28年12月14日) 

                                               投稿者 矢竹考司 (東京都在住)

 12月は忠臣蔵の新説が紹介される事が多く、今年も西本願寺から新たな資料がでていました。2008年12月には日経ビジネスが故長谷川正康著(元東京医科歯科大学名誉教授)が書いた「歯の風俗誌」を紹介していました。これは元禄の刃傷事件を赤穂塩と吉良塩の確執から、描いたもので、大筋は以下のようなものです。  5代将軍綱吉に歯磨き用として赤穂塩を献上して以来、江戸では「赤穂塩」といえば歯磨き用の塩を意味するようになり、「赤穂名産花形塩」として江戸で評判になり、赤穂塩の江戸への進出がめざましくなっていったと。 それまで将軍家へ献上してきた吉良家の「饗庭塩」は、「赤穂塩」が綱吉に献上されてから「赤穂塩」に代わられて江戸での面目を失い、吉良家にとって浅野家は意識せざるをえない存在になり、これが吉良と浅野の不仲の遠因だったと話が展開されていました。  この将軍家への「饗庭塩」献上について、国会図書館にもその資料はなく、西尾市学芸員の方もそう言われていました。 さらに郷土史家加古文雄さんも吉良町に塩は江戸には行っていなかったとの事でした。

墨田区の「たばこと塩の博物館」では、こんな面白いスト-リーが史実なら、塩の研究をしていた学者が論文で残していたはずで、それがないのは創作だとの見解の一方で、人手不足から解明されていない江戸初期の古文書が多くある、

といわれた時、佛教大大学院で赤穂の田淵家の塩の研究をしている千原さんに解読の協力も考えましたが、そこまでの必要はないと結論を出しました。  しかし「坂越の廻船と赤穂塩と坂越の船祭りの関係」を調べているので、江戸の歯に関する文献から赤穂塩を調べました。こうして氏の「江戸の入れ歯師たち」や「噛む」から 、1854年四壁庵茂蔦著「わすれのこり」と1855年山崎美成著「赤穂義士随筆」から江戸での赤穂塩の人気ぶりがわかりました。これらの中で堀部安兵衛が、歯磨き粉で赤穂の焼き塩で、江戸で最も有名だった芝の「かねやすゆうげん」の店の看板を書いた絵を紹介していました。

その堀部安兵衛の書いた看板は、去年の12月に赤穂観光協会の鍋谷会長ら4人で泉岳寺に行った時、赤穂義士記念館で私が見た看板の1枚でした。また大高源吾も麹町の歯医者だった小野玄入の看板を書いていたのは、赤穂塩が江戸で1番人気でお祭り騒ぎにまでなっていたと書かれていました。その「かねやす」は今も残り、江戸期は塩を含んだ歯磨き粉を売っていたと言っていました。これで赤穂塩の江戸の活躍の史実と、吉良の塩の江戸での創作で、書いた架空の話だとわかりました。 長谷川氏の本から赤穂塩には江戸でもドラマがあった事を知りました。赤穂塩が江戸まで運ばれるようになった流れと背景について、これまで調べてきた中から少し紹介します。 坂越の廻船が日本海で活躍出来たのは、赤穂塩の生産原価が山形の例で20倍も安かった事に関係していたと推測しています。山形の例の20倍のかい離は続かないもので、赤穂が入浜式を教えた竹原が瀬戸内の多くの地域に教えた事や、各地から北前船の参入が相次いだ為に次第に採算が悪化していったようです。これで瀬戸内の廻船は衰退していく中、坂越の廻船は江戸への塩廻船へ軸足を移していった事は広く知られています。この江戸への廻船で赤穂塩が有名なり、更に加速していた背景が長谷川氏の著書からわかりました。 赤穂で完成した入浜式塩田は、昭和28年鹿島建設によって流下式に変わるまで300年以上続き、吉良町もまた、昭和29年鹿島建設によって太平洋側で唯一流下式の工事が始まっていたのです、その流下式も国の政策により共に閉じていました。  終わりに、この14号を書くにあたり、西尾市郷土史家の加古文雄さんには随分お世話になっています。吉良町の塩田跡等を丁寧に車で案内して頂いたのは去年の事でしたが、その時「饗庭塩」は岡崎の八丁味噌 に用いられ、「塩の道」を経由して長野県伊那地方や塩尻まで運ばれ、にがりが少なく良質だと珍重されたと説明して頂けました。  その加古さんと、この12月に再開が出来た時は懐かしい感じがしました。去年から続く交流で浅草では楽しい時間が持てました。  最後にはこのシリーズをお渡しして、来年3月にも再編集して出版する話もしましたが、加古さんからは、暖かい声援を頂いております。   発行者 門田守弘 (坂越のまち並みを創る会会長)