瀬戸内坂越の北前船交流記

第19号までは「瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの全国版」を再構成したものです。

瀬戸内坂越の北前船交流記第11号(珠洲市)

 坂越の北前船交流記第11号(珠洲市

                           2016年11月21日

  10号で、竹原や播磨の北前船の活躍で、日本海側の塩生産は打撃を受け、次々と姿を消していった背景を全般で述べました。

 その最大の大きな価格差は、気候(雪、雨)の他に、潮の干満が少なかった日本海側は、人力で桶で海水を運ぶ「揚浜式塩田」だったからでした。

 これに対して赤穂で完成した潮の干満を利用して塩田に海水を入れる「入浜式塩田」は、大幅な労力の軽減から収穫で大差ができて、驚く程安い塩が作れたからでした。  

 その苦難の中でも「揚浜式製塩」を続けられたのは、他国塩の移入を禁止する等、加賀藩独自の政策があったからでした。 

 そこで、能登珠洲の塩田村施設で「揚浜式製塩」の管理運営責任者の横道 嘉弘氏に投稿をお願いしました。

横道氏と、2016年11月7日に東京の帝国ホテルでのパーティの席でお会いしました。

 

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投稿者の横道嘉弘 氏(帝国ホテルで)

 その時石川県の歴史家長山直治氏との共著の「能登の揚浜塩田」の本を頂きました。
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  横道氏との話の中で能登揚浜塩田が「世界農業遺産」になっていた事を知りました。

 

 この時、入浜式塩田を完成させ多くの地域に広めた赤穂の入浜式は歴史的価値があると思いました。 

 頂いた本の中でも長山氏が赤穂の入浜式は揚浜式と同じ労力で10倍の経営面積で塩が作れていたと具体的に述べられていた事で、当時としては画期的な製法だった入浜式塩田は、日本の歴史遺産だと感じまた。    (矢竹 考司)    

 

能登の揚浜塩田について  

 

能登では製塩遺跡の塩田跡から数えると、揚浜式製塩は1300年ほど前から中世を通して受け継がれてきた技術(珠洲市教育委員会文化財課次長・大安尚寿氏)といわれております。

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その伝統のうえに近世の塩業が発達しますが、能登一円に広がったのは江戸時代初期で、加賀藩三代藩主利常が塩手米制度をつくって製塩を奨励したことによります。 藩は1627年から専売制をしいて、明治までの約240年にわたり生産から販売までを支配する政策をとっていました。 

 しかし1672年に河村瑞賢が下関を通り大阪へ向かう西廻り航路を整備した事から、赤穂を中心とする、瀬戸内の入浜式による合理的な製法の塩が北前船で大量に入るようになると、能登の生産性の低い揚浜式製塩はその塩に押され、次第に衰退に向かいます。そして江戸後期から明治にかけて幾度かの塩田の整理が進められ、1872年(明治5年)に「塩手米制度」が廃止されると斜陽産業の道を歩みました。

 

 この塩業の窮状のなかで能登の製塩振興のために尽力した「藻寄行蔵」らの働きがあり塩田が存続されましたが、1905年(明治38年)には国の専売制の施行によって塩業の凋落が加速されました。二次、三次の塩田整理のなかで廃業が進みますが、能登半島先端の地域は製塩従業者が多く、地方経済に及ぼす影響や他に産業がなく転職問題があったために最後まで製塩は禁止されませんでした。 けれども、1959年(昭和34年)、遂に揚げ浜製塩は禁止され、能登からも姿を消すことになりました。  国は1971年(昭和46年)、安価な塩をつくるため日本の製塩をイオン交換膜法という化学的な塩の工場生産に転換したのです。

 

しかしながら、地元では揚浜式製塩の伝統的技術が消滅することを惜しむ気持ちが強く、次第に盛んになってきた能登観光の資源にしたいという意向もあり、珠洲市は揚浜塩田を消滅から守るため補助金を出して存続を図り、角花家の塩田を残しました。 この製塩技術が2008年(平成20年)には国の重要無形民俗文化財に指定されています。 私ども奥能登塩田村も、この伝統的な製塩文化を守り後世に継承することを経営理念として、塩田村施設を管理運営いたしております。

 (※ 本稿は、能登珠洲の製塩史に詳しい郷土史家・長山直治氏(故人)の著書を基に私自身の考えも加えて記しました。) 横道嘉弘 (株式会社 奥能登塩田村 代表取締役